2020.11.09_かたちは思考する

 昨日の投稿では、杉浦康平さんがまるで建築を設計するかのように、造形物として本をデザインしていたことについて触れた。これに関して、平倉圭さんの『かたちは思考する:芸術制作の分析』(東京大学出版会, 2019)は、単にブックデザインが面白いということではなく、内容を読み進める中で本の造形性を意識せざるを得なかった。今回は、本書の内容を手がかりに、そのデザインや読書体験について考えを深めた書評を掲載する。

芸術の形に物体化された思考と力

 「形は思考する。形には力がある。」(p.1)という一節から始まる本書では、芸術作品の形それ自体を注意深く見ることによって、形に物体化された思考と力を遡行的に読み解く過程が記述されている。そのため本書が扱うのは「人を捉え、触発する形を制作する技、またその技の産物」(p.2)としての芸術である。人類学者のアルフレッド・ジェルは「西洋近代的『芸術』の概念や制度がない地域や時代」(p.3)にも芸術のように人の心を捉えるものが存在していたとして、芸術を「社会的作用を媒介する物体」(p.3)とする見方をとる。芸術は、その形によって見る者を魅惑したり圧倒したりすると言うのである。そう考えると、芸術の形には作者の意図を代理表象することにとどまらない、固有の思考回路や作用者性のようなものがあるように思われる。「形は思考する。形には力がある。」(p.1)という冒頭の一節はそのことを指している。

 また、芸術の形に物体化された思考と力を読み解く際に制作の過程を分析することで、それに関わった様々な作用者(非人間も含む)の存在が浮かび上がってくる。序章で紹介されている、ロバート・スミッソンの《部分的に埋められた小屋》の写真を例にとって考えると、大量の土を載せられた小屋がゆっくり崩れ落ちる過程を作品にするという当初の計画に加えて、何者かの放火による小屋の損傷や部分的な撤去など、作者の意図に反するいくつかの変化を被った様子がうかがえる。この作品に対してスミッソンが「この芸術作品の全体は風化作用にさらされ、そのことは作品の一部と考えられるべきだ」(p.9)という言葉を残したことを踏まえれば、作者であるスミッソンだけではなく、小屋を建てた人や土を載せた人、小屋に放火した人、撤去を促した人、そして外的な作用によって崩壊した小屋自体を含む様々な要素による複合的な過程こそが、それを芸術作品たらしめている。ここで「複合的過程の結び目をなすのは、作家ではなく、形象(figure)」(p.9)、つまり芸術の形なのである。

見る者を巻き込む絵画の形

 形を解きほぐすようにしてそこに物体化された思考と力を読み込んでいく過程は、実に鮮やかである。例えば、第1章では後期セザンヌの風景画に見られるストローク(筆致)の重なり合いの構造を抽出することで、写真を基にして描かれた風景画という「世界を間接的に翻訳するスタイルが、直接性の経験をもたらす」[*1] メカニズムを明らかにしている。セザンヌが写真を基にして描いた《フォンテーヌブローの雪解け》という作品において、「ストロークの方向性は対象(筆者注:写真に映る風景)の構造に対して模倣的ではなく」(p.38)、「世界とは異なる論理によって構造化」(p.40)されている。このように、実際の世界に対して、絵画が自律的な構造を持っていると考えたとき、一連の風景画を鑑賞した際の震えるような感動はどこに由来するのだろうか。ここでは、作品が実際の風景を見る感覚を再現するのではなく、作品(の形)それ自体が見る者を魅惑し、圧倒し、直接的な感動をもたらしているのである。

 風景画は、実際の風景を圧縮的にエンコード(記号化)したものだとすると、後期セザンヌの絵画は実際の風景を模倣するのとは異なるストロークが見られるためデコード(記号化されたものの解凍)しにくい、つまり実際の風景を見たときのような感覚を味わうことは難しいと言える。しかし著者は「デコードされるべきは描かれた諸々の対象の形姿や運動ではない。デコードされなければならないのは、むしろ私たちのこの身体である。」(p.50)と力強く言い切る。(実際の風景を見る感覚を追体験するような鑑賞方法にとらわれている)鑑賞者に対して、「絵画が、それを経験しうる新たな身体を発生させる」(p.50)のである。

 このように、芸術の形によってそれを見る者が変形されるような鑑賞体験のことを、本書では「巻込(convolution)」と呼ぶ。序章で紹介されているカラヴァッジョの《メドゥーサ》を例にとって考えると、この作品が鑑賞者にもたらすのは「振り返る途中で切り落とされて叫ぶその顔を見るとき、私の顔にもその驚愕と恐怖がうつる」(p.16)ような鑑賞体験であり、「見る私の動きはメドゥーサの顔の動きに巻き込まれ、私の顔はメドゥーサの情動を共鳴し始める」(p.16)。作品の形に宿る思考と力は、見る者を巻き込み変形させることによって見る者に引き継がれる。先の後期セザンヌの風景画も、作品の形それ自体が見る者を巻き込む(直接的な感動をもたらす)のである。

読む者を巻き込む書物の形

 絵画に現れる形(先の例では特異なストロークとその重なり合いの構造)がそれ自体として思考と力を持って見る者を巻き込むのと同様に、その記述もまたそれ自体として思考と力を持って読む者を巻き込む。例えば、第1章で挙げられた《フォンテーヌブローの雪解け》を見る際に、一目で全体を理解して、完全に再現可能な記述をすることはとても難しい。そのため、「何らかの仕方で圧縮記述した複数の図式に分解し、その複数の図式を、目の前の形象と重ねつつ再統合する」(p.16)のが適切だと言える。第1章では先の絵画において至るところに見られる特異なストロークのことを「クラスター・ストローク」と呼ぶことで図式化し、またその重なり合いの構造のことを「多重周期構造」と呼ぶことで図式化し、それらの図式の組み合わせとして記述することで、読者が便宜的に対象を理解できるようになっている。このように、どんなに複雑な形であってもその構造を複数の図式に分解して取り出し、それらの図式を(頭の中から)外化された記述の上で再構築することによって、人間の生身の認知能力を超えた複雑な状態を扱うことができる。つまり、外化された記述それ自体が(それを書いた者の認知能力を超えた)複雑な思考と力を持って、読む者を巻き込む。外化された記述というのは「たんに客観的な記述をおこなうことではない。それは一つの新たな身体を作ること」(p.26)なのである。

 ところで、本書を読むと制作物としての質感あるいは書物としての造形性のようなものを強く感じる。ひとつには複数の図式(文やダイアグラム)に圧縮された記述を読むことそれ自体が、芸術作品を見て心を奪われる(巻き込まれる)ような体験をもたらしてくれるからだと思われるが、理由はそれだけではないだろう。それは、おそらく本書の誌面が文やダイアグラムなどによって記述できることの限界と可能性を体現しているからである。

 例えば、第5章では映画『ミステリアス・ピカソ──天才の秘密』に記録されている《ラ・ガループの海水浴場》(Ⅰ・Ⅱ)という連作の絵画の描画プロセスが計263枚の静止画に分解され、1ページの誌面(A5サイズ)に詰められて掲載されている(p.107)。すると、縦80cm×横190cmの大きなカンヴァスに描かれた作品が、1コマあたり縦4.5mm×横10.5mmというかなり小さいサイズに圧縮されてしまうため、ルーペ無しには見えない状態になる。

 

ミステリアス・ピカソ

fig.1:平倉圭『かたちは思考する』p.106-107

 

画質のことを考えると、もはや1つ1つの画像を見せる気がないようにさえ思えてくる。それではなぜ小さいサイズに圧縮してでも全てのコマが掲載されているのかという疑問が浮かぶが、それは静止画の羅列(という元の映像に近い状態の図式)だけから描画プロセスを理解するのは困難だということを指し示すためではないだろうか。1つ1つの画像が視認できないこと、つまり生身の認知能力の限界が露呈することで、逆説的に適切な圧縮記述(より分解された文やダイアグラムの組み合わせ)の可読性が浮き彫りになるのである。そのような意味でスミッソンの映画『スパイラル・ジェッティ』を分析した第7章には、圧縮記述の可能性を体現するような誌面が見られる。スミッソンの作品に表れる「観念的物体」という概念を手がかりに考えてみる。

観念的物体としてのランド・アート

 第7章で分析の対象となるのは、ランド・アートの代表的作品のひとつ、《スパイラル・ジェッティ》の制作過程がおさめられた同名の映画である。この作品の写真は本書の表紙にも使われており、表紙を見るだけで既に巻き込まれるような感覚になるが、本章では実際の作品だけではなく制作される前に描かれたダイアグラムや、作品を記録した映画との関係も踏まえたうえで、この映画を見る者が巻き込まれていくメカニズムが明らかになる。

 《スパイラル・ジェッティ》はユタ州グレートソルト湖に建設された螺旋状の突堤である。敷地の選定については近くに石油採掘の遺構の突堤があることに由来するようだが、螺旋状の形態についてはスミッソンが敷地の湖の風景(泥のひび割れや反射する光)を見た際の「回転する感覚」から着想を得ているという。「客観的物質としての大地と、震動し回転する主観的感覚との関係」(p.162)から螺旋というモチーフは生まれたのだ。そして、この関係は作品の制作にも引き継がれている。実際に建設された螺旋状の巨大な突堤は、紙の上に描かれた螺旋のダイアグラムやそれを説明する言葉(主観的感覚)と組み上げられた大量の岩(客観的物質)を、螺旋というモチーフによって結びつける。ここでの螺旋状の突堤のように、構造的な類似(螺旋というモチーフ)によって主観的感覚(観念)と客観的物質(物体)の境界を横断するような事物(芸術作品に限らない)のことを、本書では「観念的物体」(p.167)と定義する。そもそも、この映画は主に螺旋状の突堤をヘリコプターが螺旋を描くように旋回しながら空撮したシーンの連続とその前後の太陽のフレアやスタジオのリールなどの螺旋状のものを映したシーンから構成されている。ここでも、旋回するヘリコプターから突堤を眺めるときの目が回るような感覚や、実際に目の前に存在している螺旋状の突堤、映像を編集したスタジオでリールが回る風景などが、螺旋というモチーフによって結びつけられて連鎖していくような感覚をもたらす。そのように考えると、この映画自体も主観的感覚(観念)と客観的物質(物体)の境界を横断する観念的物体だと言える。

 ここで、観念的物体としての突堤や映画は、それ単体で成り立つものなのかという疑問が生じるが、答えは否である。螺旋というモチーフによる連鎖や、それによる観念と物体の境界の横断は、「解釈者がそこに類似を見る(螺旋を再認する)ことで、類似が解釈者の心において現実的に作動する」(p.173)ことによってはじめて成立するのである。冒頭で触れた「芸術の形が見る者を巻き込む」過程にも似た、作品を鑑賞して解釈する「私」という作用者の存在が浮かび上がってくる。

 作品を解釈する「私」という作用者の存在を退けないことは、本書の全体を貫く大きなテーマである。これは「芸術研究は常に主観をどう排除できるのかを問題にして」[*2] きたが、「芸術を研究している以上、『私』がどう感じたかということは絶対に除くことができない」[*3] という著者の問題意識に由来する。そのため、本書の索引には「私」という項目が設けられており、解釈者としての「私」を抜きにしては語れない(と著者が思う)記述が見られるページを示している。

観念的物体としての書物

 スミッソンは《スパイラル・ジェッティ》などのランド・アート以外にも観念的物体と呼べるような作品を残している。ここでは、そのうちのひとつである「printed matter」と呼ばれる一連のテキストについて考えたい。これらのテキストは主に『Artforum』などの雑誌の誌面で発表され、次のようなスミッソンの考えを具現化したものであった。

私が言語という時、それは物=問題(matter)であって、いかなる観念でもない──つまり、「出版物=印刷された問題(printed matter)」[*4]

スミッソンは、ランド・アートを建設した敷地(site)に対して、ランド・アートの写真や材料などを展示するギャラリーなどの場所を「non-site」と定義した。そして、(際限なく広いランド・アートの敷地に対して)ギャラリーなどの閉域として仕切られた(作品が生産・展示される)空間のことを「container(容器)」と捉えた [*5]が、その容器は物理的な空間のことだけを意味するのではない。時には印刷された平面やそれを束ねた書物という形態をとることもあるのである。例えば、『Arts Magazine』誌(1966/11号)に掲載された「Quasi-Infinities and the Waning of Space」というテキストでは、4ページ全ての誌面中央に黒い枠が描かれ、本文と図版・注釈がその枠の内外を行き来する。ここでは本文の意味内容だけではなく、枠の内外を行き来する文字列の動きそれ自体に新たな意味が付加されていると考えられる。このようなテキストには、「直接『container』と名指しても差し支えないような縁=枠組み(frame)が、誌面の内部に嵌め込まれて」[*6] おり、スミッソンの立体作品との間に「形態論的なアナロジー」[*7] を見出すことができるのである。スミッソンの頭の中で描かれたアイデア(観念)は、テキストの意味内容だけで表現されるのではなく、テキストが印刷された誌面(物体)として表現される。ここで印刷物は、観念と物体の境界を横断する観念的物体である。

 

画像3

fig.2:Smithson, "Quasi-Infinities and the Waning of Space."
"Arts Magazine" 41, no.1 (November 1966) : p.28-31
(『アイデア』320号 p.53 より抜粋、筆者修正)

 

 『かたちは思考する』を読んだときに感じる書物としての造形性も、これに近いものだと考えられる。映画『スパイラル・ジェッティ』の制作過程について書かれた第7章では、映画に対する記述が印刷された誌面(の形)が読む者を巻き込む。突堤とヘリコプターの空撮場所を示した多重螺旋の図版が誌面に繰り返し現れ、新たにつくられた螺旋模様の活字が本文に繰り返し現れることによって、誌面上で螺旋のイメージを増幅させつつも、図版上の螺旋のスケールを揃えることによって、テキストとしての可読性を担保している。また、螺旋のモチーフを軸にバラバラなイメージが連鎖していく様子を大変な熱量で書きながらも、その文体は論理的で構造化されている。このように、誌面のデザインにおいてもそこに書かれているテキストの意味内容においても、螺旋のイメージの連鎖を増幅して発散に向かうようなベクトルとそれを抑え込むフレーム(可読性)が同時に設定されていることで、記述として螺旋の連鎖を経験できるようになっている。そして、読者の中で両者の作用者性が曖昧になり溶け合ったとき、読者は印刷された誌面(の形)に巻き込まれるのである。本書の書物としての造形性は、分析対象として紹介された芸術作品が然るべき形をとっていたように、著者の考えを然るべき形で「物体化」(p.335)したいという思いの現れであろう。

 

スパイラル・ジェッティ

fig.3:平倉圭『かたちは思考する』p.184-185

 

 ここまで「著者が芸術の形から遡行的に思考と力を読み解こうとしたように、書物(記述)の形から遡行的に思考と力を読み解く」というアイデアを元にして書き進めてきたが、当然のことながら、これは数多くの解釈のうちのひとつにすぎない。読む人の数だけ異なる解釈が存在するであろうし、時には本稿のように著者の意図を恣意的に想像した自分勝手な解釈も含まれるかもしれない。しかし、本書を読み解くことは「たんに客観的な記述をおこなうことではない。それは一つの新たな身体を作ること」(p.26)である。本書の形に宿る思考と力は、読む者の身体において引き継がれ、別の新しい形を生むことだろう。

注釈

[*1] 平倉圭, 池田剛介,「芸術論の新たな転回07:平倉圭×池田剛介 書くことはいかに造形されるのか」, 2020, REALKYOTO
[*2] 同上
[*3] 同上
[*4] 上崎千, 森大志郎, 「「出版物=印刷された問題(printed matter)」:ロバート・スミッソンの眺望」『アイデア』320号, 2007, 誠文堂新光社 : p.49
[*5] 同上 : p.52
[*6] 同上 : p.53
[*7] 同上 : p.53