2020.11.07_テープ起こし

 3年ほど前からいくつかの編集プロダクションでアルバイトをしている。その仕事の中心はインタビューやトークショーの音源を聞いて文章として書き出す、いわゆる「テープ起こし」の作業だ。何事もゼロからイチをつくるのが苦手で、小さい頃から作文など自由な文章を書こうとするとかなり悩んでしまう性分なのだけれど、テープ起こしは他人の言葉をベースにして分かりやすく言い換えたり体裁を整えたりする作業なので(そんな簡単な話じゃないと言われそうだけれど)、あたかも自分でスラスラと言葉を生み出しているような感覚がして楽しい。

 テープ起こしといえば、伊藤亜紗さん[*1]のプロフィールにはいつもこのように書かれている。

趣味はテープ起こし。インタビュー時には気づかなかった声の肌理や感情の動きが伝わってきてゾクゾクします。(『どもる体』, 伊藤亜紗, 2018, 医学書院 : p.256)

また、あるインタビューでも、テープ起こしについて話されている。

会話しているときには気づかなかったズレや、汲み取れなかったニュアンスを聞き取っていく。その過程で、自分のなかですごい認識のイノヴェイションが起きている感覚があるんですね。微妙に「声」が震えることもあったり、癖がでたり…。体というのは100パーセントはコントロールできないものですよね。それをじっくり観察するということは、ちょっとエロティックな感覚さえ抱きます。( WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017 28 伊藤亜紗「昆虫、変身、メタファー。ひとの“違い”をよりよく見つめるために。」, 2017, WIRED.jp)

ここで、「インタビュー時には気づかなかった声の肌理や感情の動きが伝わってきてゾクゾク」することや、「自分のなかですごい認識のイノヴェイションが起きている感覚」があることは、伝わってくる情報が声だけに制限されている(チューニングされている)からだと思う。直接話を聞いていると身振り手振りや顔の表情など視覚的な情報が多いため、音声よりもイメージとして相手の言いたいことを受け取っている。しかし、テープ起こしを通して改めて音声だけに絞って相手の言いたいことを抽出しようと試みると、音声だけでもかなり情報量が多く、一字一句正確に書き起こしてもそれだけでは伝え切ることができないほどのニュアンスの塊のようなものがある。それをできるだけなくさないように文章化するのはとても難しいけれど、文章という形式に変換してしまう以上、その形式として理解しやすい形に変換する必要がある。

 逆に、文章という形式なのに、音声の生々しい手触りが残っているような文章を読むとゾクゾクする。例えば、岡田利規さんの『わたしたちに許された特別な時間の終わり』[*2]は小説なのに(ちゃんと小説という形式になっていて、喋り言葉そのままではないのに)、喋り言葉のニュアンスがある。戯曲バージョン(チェルフィッチュの『三月の5日間』[*3])に見られるような今どきの若者の喋り言葉をそのまま書き起こしたようなセリフも、回想しているかのように場面・状況を喋っていく語りも、地の文として一緒くたに書かれていて、どちらもいまいち要領を得ないような喋り方をしていて、生々しい。このような「キチンと喋らない」文について、岡田さんはこのように話している。

あのキチンと喋らない台詞、要領を得ない台詞を書くきっかけのひとつが、テープ起こしのアルバイトをやっていた経験にあるのは明らかです。(中略)このテープ起こしが、ものすごく面倒くさいのですが、それと同じくらい面白い。というのも、一字一字、全部忠実に文字に起こしても、何を言ってるのか全然分からないんですね。でも、言葉ではっきりとは言っていないのに、話全体からは、その人が何を言おうとしているのかは分かる。そのことにビックリした経験は大きい。(中略)世の中の人が会話している、あの要領を得ない喋り方を再現し、その要領を得ないものの中に含まれていることを表現するのが、僕のやりたいと思っていることのひとつです。(「『超リアル日本語』を操る劇作家・岡田利規の冒険」, 2005, Performing Arts Network Japan)

なるほどな、と妙に納得した。

 最後に、好きなインタビュー本は?と聞かれたら、重松清さんが憧れの表現者9人へのインタビューをまとめた『この人たちについての14万字ちょっと』[*4]をあげようと思う。厳密に言うとこの本は、インタビューともルポルタージュとも評論ともつかないような形式でまとめてある。例えば、取材している会話の途中に重松さんが相手に対して抱いている印象や昔の思い出話などが入れ込んである。すると読んでいるうちにインタビューしている相手の発言であっても重松さんの言葉のように感じるし、そもそもインタビュー記事って、文章にまとめる書き手の言葉で翻訳されたものだよなという当たり前のことに気づかされる。こういう生々しい文章を読むとゾクゾクするし気持ちがいい。それでは、この本の「あとがき」から引用して終わろうと思う。

ずっとお目にかかりたくて、ようやく初対面が叶ったひとがいる。何度目かの対話であっても、向き合うたびに畏れを新たにするひとがいる。そんな方々にじっくりとお話をうかがえる感激と緊張で、生来の小心者の第一声はいつも震え、かすれ、うわずって、ときには裏返ってしまったこともあった(誰の回かはナイショ)。その声の揺らぎが、行間からたちのぼってくれるといいな、と願っている。(『この人たちについての14万字ちょっと』, 重松清, 2014, 扶桑社 : p.6-7)

注釈

[*1] 伊藤亜紗:主な著作に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)、『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)など。
[*2] 岡田利規, 2007, 『わたしたちに許された特別な時間の終わり』, 新潮文庫
[*3] 『三月の5日間』:岡田利規さんが主宰する劇団チェルフィッチュの代表作の一つ。イラク戦争が起こっている5日間に、渋谷のラブホテルで過ごす男女を中心に日本の若者たちを描いた作品で、平田オリザさんの提唱する「現代口語演劇」をさらに推し進めたような「超リアル日本語演劇」とでも呼ぶべき、喋り言葉のセリフが見られる。
[*4] 重松清, 2014, 『この人たちについての14万字ちょっと』, 扶桑社/伊集院静池澤夏樹浦沢直樹鈴木成一是枝裕和いとうせいこう山田太一赤川次郎酒井順子の9人へのインタビューが収められている。