2020.11.06_地域アートとハイアート

 先日、スタッフとして関わっているアートプロジェクトの参加者たちと飲んでいる時に、「ハイアートが好きなのに、なんで市民活動(地域の芸術祭)に関わっているの?」と聞かれて、考え込んでしまった。これに関してはまだ上手く答えられないのだけれど、こういうことを聞かれるというのはつまり、ハイアートと地域アートの間には明確に線引きがされている(という認識が広がっている)ということだと思う。もっと広く捉えるとライフスタイル全般に関して、地方への(文化的なクラスターからの)関心の高まりを一回経由した上で、なお都会的なものと地方的なものの間に分断があると考えられる。この辺りについて考えてみる。

 地方への関心の高まりに関しては「地方創生」という標語など色々な要因が考えられるけれど、その兆候が表れてからイメージを広く伝播させたという点では、ライフスタイル誌の影響が大きいと思う。メディア文化史研究者の阿部純さんが指摘するように、『ku:nel』などのライフスタイル誌が「雑多な日常風景を均整の取れた風景として写し取る暮らし語り文法」を広め、その手法が地方での暮らしを紹介する際に(地域の情報を扱った雑誌などで)頻繁に用いられてきた [*1] 。このことは「地方とはていねいな暮らしをするところだ」という認識を広めたと考えられるが、あくまで都会の論理として押し付けられたイメージにすぎないのではないかとも思う。

 さのかずやさんも「『ていねいな暮らし』がもたらす、都会と地方、身体と精神の分断について」というエッセイの中で、このことについて触れている。

地方産品が都市文脈で消費されていること、「地方でていねいな暮らし」というイメージがいまだに支持されていること、というふたつの流れによって、都市と地方の断絶が進んでいるのではないだろうか、と考えている。(中略)「活発に暮らす場としての都市」「穏やかに暮らす場としての地方」という区切りはもうやめにしたい。[*2]

この分断は都会のせいだけではないと思う。地元(茨城県日立市)に帰るたびに、都会の論理としての「地方でていねいな暮らし」のイメージを逆輸入したかのようなお店が年々増えているなと感じるのもそういうことで、昔から通っているお店が急に個性を失ってしまったような感じがして少し寂しい。

 さのさんは「地方で(ていねいな暮らし文脈でなく)クリエイティブに暮らすことの価値」が認められるべきだとも言っていて [*3] 、極論もとから地方で面白いことをしていたり良いお店をやっていたりという人はそのままやり続ければよくて、後はそれを広く伝える都会の側の人のリテラシーとマナーにかかっているなと思う。

 冒頭の話題に戻ると、あくまでハイアートと地域アートを地続きのものとして考えるべきだと言いたいわけではない。あいちトリエンナーレ2019のことを扱った論考「ボイコットをボイコットする」で椹木野衣さんが指摘しているように、本来は作品を通して政治的な諸問題を提示する場としても機能していた(都市で開催される)「トリエンナーレ」と、大地の芸術祭に端を発した観光資源としての可能性を開こうとする「芸術祭」は混同すべきものではなく、現在では前者が後者の論理に飲み込まれることで色々な齟齬が起きていると言える [*4] 。だから、トリエンナーレ(=ハイアート)と芸術祭(=地域アート)はそれぞれ別の論理で動くべきで、それを強引に架橋したいと思っているわけではない。しかし、この線引きを共有したうえで、引かれた線の両側を行ったり来たりするフットワークの軽さを持って、棲み分けやディスコミュニケーションという意味での対立構造を攪拌しようとするような活動に敬意を示したいとも思う。

 そういった意味で、福住廉さんの『今日の限界芸術』(BankART 1929, 2008)を読んで考えさせられることが多かった。この本では、鶴見俊輔氏が定義した「限界芸術」の概念を援用して、創作活動をおこなう素人の作品や、既存の美術の文脈では取り上げられないような作品・活動にスポットライトを当てている。なかには、福岡市中心街の路上で見られる謎のハリガミマンガ「サンパクガン」など作者の顔が見えない作品(作品かどうかすら分からない)についての分析もある。これらに共通するのは「美術館」という制度の中では展示されない作品だということで、それゆえ福住さんも自身のことを「いろもん美術評論家」と名乗った上で、ある種の権威からは距離を置いたところで批評するというスタンスを取っている。そして、そもそも「作品」という定義が成り立つ根拠は美術館に展示するという制度自体にある以上、「路上の表現活動は「作品」であるわけがないのだから、クオリティという基準によって評価することは、本末転倒なのだ」[*5] と言い、既存の美術の文脈とは異なる価値基準を生み出すべきだと投げかけている。

 このような態度は全体を通して見られ、平易な言葉遣いひとつとっても、どうやって美術批評の文法から脱却した上で批評するのかといったような気概が感じられる。冒頭の話題に引き寄せて考えると、ハイアートと地域アートは別の論理で動くべきだと認めた以上、いかにしてハイアートの文法から脱却した上で地域アートを(ただ礼賛するだけではなくて)批評の俎上に載せるのか、模索していくべきだと思う。その点、福住さんの批評活動は、地域アートに固有の価値基準を考えるためのヒントを与えてくれるものであり、ひいてはハイアートに対する問題提起をおこない対立構造を攪拌するような性質のものだと考えられる。

 冒頭の質問に対する答えは、今すぐに用意できるものではないけれど、おそらくこのあたりに糸口があると思う。引き続き考えていきたい。

注釈

[*1] 阿部純, 「暮らし」『現代思想43のキーワード』, 2019, 青土社 : p.217-221
[*2] さのかずや, 「『ていねいな暮らし』がもたらす、都会と地方、身体と精神の分断について」『田舎の未来』, 2019, タバブックス : p.121-124
[*3] 同上 : p.125
[*4] 椹木野衣, 「ボイコットをボイコットする」『新潮 2020年1月号』, 2020, 新潮社 : p.192-198
[*5] 福住廉, 「alternative realities ストリート・アマチュア・クリティカル」『今日の限界芸術』, 2008, BankART 1929 : p.122