2020.11.05_水戸芸術館とキワマリ荘

 10月まで諸々忙しかったのだけれど、今月に入って少し休めそうだったので、一昨日から茨城の実家に帰省している。そこで、せっかくならと水戸芸術館「道草展:未知とともに歩む」と、キワマリ荘/中﨑透美術館準備室(仮)の「Connection Collection」を観てきた。水戸芸術館は去年の夏にやっていた「大竹伸朗 ビル景」ぶりで、キワマリ荘に行くのは今回が初めてだった。

 「道草展」は、昨今の気候変動や自然災害に対する社会的な関心の高まりや、「エコロジー」というキーワードに紐づいた人間と非人間(自然環境など)の関係を再考する思想的なモードを背景に、人間と自然環境のつながりについて考えるというもので、6組の作家のドローイングや写真、映像、インスタレーションなど様々な表現媒体の作品が並んでいた。その中でも、ウリエル・オルローによる「植物の劇場」シリーズが特に印象的だった。南アフリカの薬草療法をテーマにした本作では、その収穫から製薬、販売、流通などを追うことで、薬草を取り巻く異なる論理の対立(人間界と自然界、伝統と現代先住民族の権利と知的財産権など)が描かれる。植民地支配や資本主義の台頭によって圧迫された自然と人間(の関係性)の現状を通して、単純な自然環境と人間という図式には回収し得ない、政治的な構造や歴史などを含んだ複雑なネットワークが浮かび上がる。また、土地開発によって移植された樹木の軌跡を辿ることで時空間的に広がる関係性のネットワークを描いたミックスライスの《つたのクロニクル》や、ロイス・ワインバーガーが本展のために構想した遺作《ワイルド・エンクロージャー》の屋外展示(自然発生する植生)なども印象に残っている。

 本展を観て、最近読んだ本の中で建築家の能作文徳さんが「エコロジーはリプリゼンテーション(代理表象)が可能か」という問題提起をしていたのを思い出した。これは、現代美術において「エコロジーをリプリゼンテーションの問題だけで考えると、それ自体は地球環境に対してはまったく解決の方向に作用していない」[*1] という話。たしかに、今回出展された作品の多くは人間と自然環境のつながりを表象のレベルで描くものだったが、先のウリエル・オルローによる「植物の劇場」シリーズは、薬草に関わる現地の人々との継続的な協力関係を築くことで、アーティストが薬草を取り巻く政治的・歴史的な関係性の網目に介入することの可能性を示しているように感じた。

 次に、キワマリ荘と中﨑透美術館準備室(仮)で開催されていた「Connection Collection」を観に行った。「美術家中﨑透の手元に約20年かけて集まってきた縁や関係性よってできた作品コレクションの展覧会」(フライヤーより抜粋)とのこと。以前からアートスペースとしてフレキシブルに使われていたキワマリ荘と、現在改修中だという中﨑透美術館準備室(仮)の二つの会場に、陶器や絵画、彫刻、映像など700点超の作品が所狭しと展示されてあり、中﨑さんによる、作者との思い出などが綴られたキャプションが面白く、隅々まで読んでしまう。最近聴いた「山下道ラジオ」(第49回)で紹介されていたのがきっかけで訪れたところ、「新しい骨董」の作品もいくつか展示されてあり、車で踏まれたコカコーラの空き缶や蟻鱒鳶ルの欠片などを生で見れて感動(潰されたコカコーラの空き缶は見慣れているし、蟻鱒鳶ルにも何度か行ったことがあるけれど...)。そのほか、Nadegata Instant Partyの映画『学芸員Aの最後の仕事』や、Re-Fort PROJECT vol.5の映像アーカイブなども。改修中の古民家のトーンと展示されている作品が絶妙にマッチしていたのが印象に残っている。

 という感じで、久しぶりに水戸芸術館周辺を満喫した。水戸芸術館には小さい頃からよく行っていたので、今でも時々「あのイベント面白かったな」と思い出すことが多いのだけれど、展示はもちろんミュージアムショップのラインナップとかも結構覚えていて、小学生くらいの時から「そこに置いてある本=何かカッコいいもの」という認識のもと、本棚を舐めるように見ていた。僕のカルチャーや美術に関する趣味嗜好は、ほぼほぼ水戸芸術館ミュージアムショップによって形成されていると言っても過言ではないと思う。

注釈

*1:下道基行, 安野太郎, 石倉敏明, 能作文徳, 服部浩之, 『Cosmo-Eggs|宇宙の卵——コレクティブ以後のアート』, 2020, torch press : p.127