2020.11.04_彷徨うコレクティブ

 最近、『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』(明石書店, 2019)を読んだ。この本では、大学に所属を持たず学問研究をされている「在野研究者」の方たちが自分の研究と生活との関係などを綴っていて、アカデミズムに対する認識の仕方も研究スタイルも人それぞれで面白い。

 その中でも特に気になったのが、「彷徨うコレクティブ」と題された逆卷しとねさんの論考。逆卷さんはダナ・ハラウェイに関する論考などで有名な「野良研究者」で、『ユリイカ』や『現代思想』で名前を見かけることがあったが、ちゃんと読んだのは初めてだった。この論考では、逆卷さんが世話人を務めている市民参加型/異分野遭遇学術イベント「文芸共和国の会」について主に触れている。「学会」と呼ばれる学術的組織や、カルチャースクールのような講座が、学者と一般市民を明確に分けてしまう制度であり、また「形式的には広く告知をし、多様な参加者を募るオープンな会でありながら、実質的には異物を排除する傾向を持つクローズドな学会や研究会」(p.224)が多いことに対して、逆卷さんはそのオルタナティブとして「文芸共和国の会」を定期的に開催している。

僕が考えるオープンな会とは、議論の混乱そのものを直接経験する場だ。(中略)自分とは異なる分野に属する、それぞれ特殊な職業、生い立ち、偏見、嗜好をもつ、正体不明の誰かとの対話は、建設的な議論とは無縁の混沌と言ってもいい。僕は「場をコントロールすべき司会」の任を放棄する。名前も所属も聞かない。こうすると、プレゼンをする「学者」がいる壇上とそれに耳を傾ける「聴衆」がいるフロアのあいだに、混沌を共有する対話の場が立ち上がる。[*1]

 この辺りの話を、僕自身が関わってきた、バラバラな嗜好性・特技を持ったメンバーによって構成されたコレクティブでの創作のことを思い出しながら読んでいた。「混沌を共有する対話の場」はあくまで意図的に作り出せるものではないし、安定的に繰り返し再生産できるものでもないと思う。僕の場合(一応代表のようなことをやっていた)、そもそも専門領域や肩書きの定まらない、役割の未分化な状態から創作を始めたことで、必然的に混沌とした場になった(あるいは、必然的にコントロールを放棄せざるを得なかった)という側面もあるが、何かしら形にしてアウトプットするためには、どこかにゴールを設定する必要があり、それが初期にあったエネルギーを減衰させてしまうこともある。逆卷さんの「マネジメントをしないというマネジメント」とでも言うような、世話人の立ち振る舞いから学ぶべきことは多いと思う。

 最後に、印象に残った一節を。

別の場所をつくればいい。僕だけではなくて、誰でも参加できて、見知らぬ人と出会い、気に入ればつながることができる場所をつくる。あるいは、有象無象が気軽に集まるトポスに僕自身がなればいい。(中略)学術の場であると同時に世間でもあるようなよくわからないこの場所は、大学や学会ではないし、かといって世間話をする井戸端でもない。教えるものと教えられるものとが分断されない、みんなが手探りで藁をつかむために束の間立ち上がる場でこそ、独りでは不可能な学びは体験できるのではないか。[*2]
注釈
*1:荒木優太・編著, 『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』, 2019, 明石書店 : p.225
*2:同上 : p.226